歴史と流れ

倉賀野(くらがの)の歴史

五世紀頃、倉賀野の地には浅間山古墳(せんげんやまこふん)をはじめ、大古墳が築造された。浅間山古墳
 
やがて平安時代になると宮原荘(みやはらのしょう)が置かれ、
鎌倉時代にこの地に落ち着いた武蔵児玉党(むさしこだまとう)の子孫が倉賀野氏を名のる。
 
南北朝の頃、戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城。
戦国時代には北条、上杉、武田氏の勢力争いに巻き込まれ、天正十八年(1590)に倉賀野城は陥落し廃城となった。
 
永泉寺には倉賀野城主、金井淡路守(かないあわじのかみ)の墓石がある。また、今も倉賀野城祉が残っている。
 
金井淡路守様の墓 倉賀野城祉
 
江戸時代に入り中山道が整備され、倉賀野宿には本陣一つ、脇本陣が二つ置かれ、
 
脇本陣 脇本陣
 
日光例幣使街道と中山道への分岐点が設けられた。
分岐点の間にある”閻魔堂”には、今も当時のままの常夜灯と道しるべがある。
 
分岐点 閻魔堂と常夜灯
 
烏川
倉賀野を流れる烏川(からすがわ)には、倉賀野河岸(くらがのかし)が整備された。
 
河岸(かし)とは河川の港のことであり、倉賀野は
烏川の就航点の港町としても発展した。
 
英泉 木曽路街道六十九次 船は浅い川でも進める高瀬舟が使用され、寛政12年(1800)の記録では小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで約119艘が就航したという。
 
運賃は陸上交通の半分ほどで、一度に大量の荷物を運べるため利用度も高かった。
 
下り荷は米・煙草・雑穀・絹・綿などが江戸に運ばれ、上がり荷は塩・藍・お茶・ぬか・海産物・陶器・小間物などが河岸から宿場へ上げ荷され、各地へ運ばれたという。
 
江戸と諸国を結ぶ物資輸送の重要な中継地であったことから、倉賀野の宿場は参勤交代や旅人、船頭や人足、町人などで大変賑わったという。
 
戸塚屋傳兵衛
享和三年、(1803)の記録によると、家数四百五十三軒、旅籠(はたご)六十四軒、人口は二千百五十六人におよび、当時の繁盛ぶりが偲ばれる。
 
倉賀野には“市”の機能があったと言われ、今でも南町、上町、下町、桜木町、
中町、田子屋町などの地名が残っている。
 
倉賀野に残る歴史の跡をご覧ください。
 
 
 
   「南家高名録」より「戸塚屋傳兵衛」

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